幸福の相対評価 #4
河原一久
著書に『読む寿司』(文芸春秋)、『スター・ウォーズ論』(NHK出版)、『スター・ウォーズ・レジェンド』(扶桑社)など。
監訳に『ザ・ゴッドファーザー』(ソニーマガジンズ)。
財団法人通信文化協会『通信文化』に食に関するエッセイ「千夜一夜食べ物語」を連載中。
日本ペンクラブ 会員。
1977年に公開された山田洋次監督の映画「幸福の黄色いハンカチ」は今観ても鑑賞後には胸が熱くなる名作だが、主演の高倉健さんの物静かな演技が観る者の心を揺さぶる作品でもあった。
物語は些細な口論から人を死なせてしまった男、島勇作が刑期を終えて刑務所から出所してきたところから始まる。
勇作は食堂に立ち寄って瓶ビールを注文し、続けて醤油ラーメンとカツ丼を注文する。
長年刑務所暮らしをしていたわけだからビールはもちろん、ラーメンやカツ丼なども縁遠い存在だったに違いない。
勇作は料理が来る前にコップに注がれたビールを飲む。
いや、その前にビールが注がれたコップをじっと見つめ、そして両手でしみじみと握りしめると一気に飲み干すのだ。
渇望が充たされるその瞬間、彼の目は閉じられる。
そして身体の内側からこみ上げてくる激情を押さえつけるかのように静かにだが大きく息を吐き出す。
続いてラーメンとカツ丼が運ばれてくる。
待ちきれない様子で割り箸を取ると勇作は目の前に置かれた2つの丼をじっと見据え、箸を構えながらもまずはカツ丼の蓋を取って中身を確認する。
そしてラーメンに乗せられた海苔をつまんで麺とスープに馴染ませると一気に麺をすすり始める。
それも3回続けて・・・
このシーンはこれで終わり。
たったこれだけの場面なんだけれど、出所した男の最初の外食の喜びがこれ以上ないほど伝わってくる。
有名な話だが、この場面を撮影するにあたって、高倉健さんは2日ほど食事を絶って水だけで過ごし、出所してきた男の「渇望」にリアリティを与えたのだそうだ。
食事は代金さえ支払えば手に入れることができるが、映画はその後、勇作が本当に求めていた「妻の愛」というものに対する「渇望」を静かに描いていくのだが、このエピソードを紹介した理由は別にある。